昭和四十七年六月二十二日
「神徳を受けよ、人徳を得よ」
今朝御祈念中に頂きました事ですけれども、それこそ どれだけ沢山あるか分からないという人力車がね、ひしめき合うて我先に走っておるというところを頂いた。
まあ中には早いのがおって、何台か先を行っておるのは楽ですけれども、一緒に行ってるのは、もうひしめき合っておる、ですからもう車と車がかち合ってね、ひっくり返っておるのがあるかと思うと、自分はもう駄目だと云うて遅れてね、もう車がくずれたり、引き手がどうかなったりというような、兎に角沢山の人力車がひしめき合うて走っておる、という所であった。
まあ特別にいくらか先に行っておるのは楽のようであるけれどもそれはトップを続けるという事は、大変な事だろうと思われるような、そう云うひとつの様相と云うかねえ、今日、御心眼に頂きましてね、これが云うなら人間の浅ましい世界、本当の神様を知らない人達の姿であろうと、私は思わせて頂きましたね。
人力というのは人間の知恵とか力だけで、一生懸命我先に、云うならば自分の都合、自分一家の事だけに、まあ血道をあげて自分が立身出世と云う事だけに焦点を置いて、その為には、例えば仇が出来るならば仇を倒したり、敵を倒したり、又は傷つけ合ったり、怪我しながらね、生きておる姿が本当の人間の姿だと、現在私共が住んでおるこの世の姿なんです。
果たしてね、こういうような事で、本当に人間が幸せをかち得る事が出来るだろうか、絶対駄目です。そこにね、教祖生神金光大神が、天地金乃神様から、此の方一任に神の願いを吐露される、打ち明けられる、神の心を金光大神に打ち明けて、そして難儀な氏子を取り次ぎ助けてやってくれと仰るのは、そう云う事では人間の幸せにはつながらないのだ、こゝに本当は幸せの道があるのだ、その幸せの道をお前が体認し、体得させて頂いて、それを難儀な氏子に取り次ぎ助けてやってくれと云う神の願い。
ですから金光大神のその願いというものを、そんなら私共お道の教師は、ひた受けに受けさせて頂くという事は、いわゆる神の前立と、こう云われとりますが、神様の心が分からせてもろうて、いうなら自分の我情我欲を離れて、真の道を知らしてもろうて、その真の道を人に伝えなければならない、と云う責務がある。
そんならこれはお道の教師だけじゃない、お道の信心によっておかげを受けた人達はです、いわゆる金光大神の願い、天地金乃神の願いというものはね、金光大神に託されたその天地金乃神様の願いが、その後を受けていく継手から継手へ伝えられて、本当の難儀な氏子が助からなければならない事になる。
そのおかげを受けた、そんならお道の信奉者一人一人がです、そういう天地金乃神様の、いわゆる願い、御神願の程を悟らせてもろうて、御神願に答え奉るところの生き方、信心をさせて頂くと云う事がです、私は、神徳を受ける事だと思うです。
これはね、神徳を下さらなければ役に立ちませんものね、神様の願いというのは難儀な氏子が助からなければならない、助からなければならん為には、徳もなければ力も無い者が、いくら伝えたっちゃ伝わる筈は無いし、助かりゃしません。
そこで神様も又、神徳を下されなければならない、神様の力を頂かなければならない、それによって、いうならば人間の知恵、力でさせろうとするような思いを捨てきって、人力から神力一途の信心にならせて頂くという、だから金光様の御信心はね、そこまで頂かなければ金光様の信者とは云えないです、神様の願いを本当に分からせてもらい、神様の願いに応える、云うなら信心にならなければいわゆる金光大神御出現の訳が分からなくなってくる。
私はね、これはいつも実感する事ですけれども、今日私は愈それを実感して、皆さんもそれを実感して、その線に添うて頂かなければならないと思うのですけれどもね。
この天地の中には神様が、云うならおかげは降るようにあっておると仰るように、もうまして人間だけじゃないですけれども、まして人間の上にはです、人間がどうでも幸せにならなければおれない程しの働きが、いつもあっておるという事、それをね、自分達が人力をもって走るもんだから、神の願いというものがそこに表れようがない。ですからこれは私が、現在合楽でだけしか云えない事だと思うのですけれどもね、これを本当に分からせて頂いたらね、心がゆったりしてくるです、そん為にそんなら人間の力、いわゆる障子ひとえがまゝならぬ人の身と仰る、本当にそこが悟れなければいけん、障子ひとえがまゝならぬ人の身と教祖は仰っておられる。
我無力と云う事なんです、そこで神様の働き、神様のおかげに縋らなければおられない、ゆだねなければ馬鹿らしい、任せた生活、ゆだねた生活、しかも神様に縋る生活。
又の御神訓にね、「四季の移り変りは人の力の及ばぬ事ぞ、物事時節に任せ」。もうこれなんかはね、金光教祖を通して天地金乃神様が、人間の一人一人に本当に云うて聞かせて下さってある言葉なんです。四季の変わりは人の力の及ばぬと云う事は、春夏秋冬という事だけじゃないです、四季の変わりはと云う事はね、もうあらゆる自然の働きは神様の働きと云う事、ですから一人一人の上にもそれがある、一人一人の上にも自然の働きと云うものがある訳です。それは違うのです、春もあれば夏もある、これはね、人間の力ではどうする事も出来ない、それはどうにかする事が出来るようにあるのは、それは束の間の事であってね、それは人間の力で人力を引っ張ると云う事なんですけれども、それではね、神様の下さろうとする本当の働きの方へ走らんです。
どんなにスム―ズにパ―ッと先の方に走っておっても、ひしめき合うてそこんところを、そんなら他の車をふせはなして、ふり切って進んだところでです、それは本当の幸せという事ではないと云う事です、いうなら人間の知恵力で、地位も得た、名誉も得た、財も得たと云うてもです、それが幸せの条件には決してならないと云う事、立派な家を建てたから、お金がこれだけ貯まったからと云う事が、決して人間の幸せの条件でないて。
次に、天地の事は人の眼をもて知りて知り難きものぞ恐るべし、恐るべしと、人力で走っておる人達の行き方というものは、もうそれこそ云うならばハラハラするような生き方をしとるという事、私が真の信心を頂いておって、そして私が高いところから、そんならこうやって皆んなの姿を、こうやって見ていると致しましょうか、信心の薄い者、いや信心の無い者、人達の姿というものを見ておると致しましょうか。
いかにも肩をいからして、威張って歩いておるようであっても、さあその一歩先にです、どういう事が起こるやら分からない事を、知らんで行っておるだけでしょうが、いうなら破れた橋を渡っとって、はあ落ちこまにゃよかがと、こちらからハラハラして見ておるようなものです、みんなの信心の無い、又は信心の薄い人達の生き方というものは、本当の信心頂いた者から見ると、はあ今こそあげん調子ようやっていきござるけれども、先にはあゝいう事になってくるのに、こう云う事になってくるのに、早く眼ざめなさらんかなあと、思わにゃおられない事ばあっかりなんです、人力で世の中を渡ろうとしておる人達の姿です。
それこそ、ひしめき合うてまで先に幸せになろう、幸せになろうと思うて行っておるけれども、そこにそんなら特別の運が良かった力があったとしてです、先に例えば誰よりも先に走っておると致しましてもです、立派な家に住んだり、沢山な金を持っておったり致しましてもです、それで幸せには決してならない。
こゝに自然の働き、天地金乃神様の御働きの中にです、もう一人一人の氏子にいわゆる、成程神は平等におかげを授けるが、受け物が悪いと仰る、あの御教がそうです、もう神様は平等におかげを授けて下さると云うのは、自然の働きに委ね、それを頂ききって行くならばね、みんなが幸せになるごとなっとるとです、これは絶対なんです。人からは馬鹿とか、チョイとか云われるような人でもですあのイワンの馬鹿とか云うのがありましたでしょうが、あゝ云う例えば、もう自然の成り行きに抵抗しないで行く行き方の中で、その人のところだけに幸せが集まるのかと云うように、幸せが集まってくる。私はこゝの大事、こう云う大変な事をです、人間に分からせなければならない責任がです、教祖金光大神の教えを頂く者には皆んなあるとです。
兎に角あんたどんが、いくらがたがたしたっちゃです、四季の変わりと云う事は人間の力に及ばぬ事だから、物事時節に任せなさい時節を待ちなさい、いわゆる神様任せの生活をしなさいと云わなければおられないものをです、私共がまず頂かなければいけんのです「天地の事は人の眼をもて、知りて知り難きもの」
私共では分からない事、分からない世界、それこそ我先にひしめき合うて、云うならトップを切って走っておったところでです、それは真の信心の者が見ておったら、危ない危ない、いわゆるそれを人間は、世の中は栄枯盛衰だと、もう世のならいのように思うてしまっておる。
儲け出しとるかと思うたら、又貧乏になった、今度は貧乏人が又儲け出した、栄枯盛衰は世のならいだと云うように、人間は思い込んでしまうようになった、これが間違い。
天地自然の働きの中に、天地金乃神様の御働きの中にはです、もう絶対私共が自然の働きを頂きに頂き、任せに任せ切っての生き方になると云うところにです、もう絶対人間の 云うならば人力ではなくて神力になっていく、この世は徳の船に乗って渡れと、久留米の初代は仰ったそうですけれども、徳の車に乗っていくのですそういう例えば生き方を、私共が体得させて頂いていこうという生き方を心に定めた時、確かに自然の働きと云うものは、人間の知恵力でどうにもする事が出来ないものだと、それをまず障子一重がまゝならぬ人の身と云う事を知らにゃいかん、第一何か淋しいような気も致します。やるしこやってみた、けれども自分の知恵力で、人を動かす事も出来なければ、物を動かす事も出来なければ、人間が幸せになるという事も、出来たかのようにあっただけであって、実際はそうではない事を分からせて頂く、そこにまあ云うなら世の無情を感じると云う事になるでしょう。
人間じゃけん、例えば失敗したり、困ったりする事があって、初めて悟らしてもらう事が出来、人間が本当に病気になってみてです成程人間の知恵やら力やら、医者やら薬やらじゃどうにも出来ない事と分からせてもらう、その間には、あの医者はとてもいゝですよこの薬は良く効くですよと云いよるけれども、それは効きよるごたるだけの事、それは只一時的なもの、もううたかたのようなもの、そういう幸せは、そしてそう云う事がいかにつまらん事かと云う事が分かる時に、自然に委ねる心というのが生まれる。
自然の働きに委ねる、委ねなければおられんのだ、障子ひとえがまゝならぬと云うのが分かったら、云うなら世の無情を感じる時に初めて信心の、本当の信心と云うものは分かる、病気になってみて人間の健康な時の有難さが分かるように。
障子ひとえがまゝならぬ人の身なのですから、そんならもうどうにもそんな事になっとるなら仕方がないから、もう自然に任しとこうと云うて、ちゃあんとこうしとけと云うのじゃない、いわゆる任せて縋れと仰る。
私共のその生き方、今月今日只今を祈り、願わせて頂いていく事なんだ、それをそんなら今日のように頂くとです、今月今日只今をです、和賀心にならして頂く事を願い、どういう事態があっても、どういう事柄になっておってもです、それを自然の働きとしてですそれを尊ばせて頂くと云う生き方に帰してくるのです。
神徳を受けるという事はそう云う事だと分かって、それに任せて縋るという生き方に、神徳が受けられるのです、今日私はこの人徳を得よと云う事を、人徳という事は、仁徳と云う言葉がありますねそれとは違うと思うですね、仁徳と人徳は違う。
生れ乍らにして、仁徳を供えておると云われますねえ、確かにそんなものがありますよ、人の信用を篤く頂いていくという人、人徳というのはね、いわゆる神徳を受ける前提とでも申しましょうか、いわゆる人間の眞の人、眞の人間にならせて頂く、精進、努力、そこについてくるのが仁徳、だからこゝんところには、成程得よと仰る意味が分かるでしょう、その事に精進努力をしなければ得られない、人徳というのは、眞の人間、眞の人にならせて頂こうとする努力精進、それから人徳が受けられる、人徳は得よと仰る、自分で精進努力して得なければならない、云うならば儲け出す為には自分で働けという事、働かにゃ儲からんと云う事。
自分で一生懸命人徳を受けて行く為の働きと云うものをです、精進努力させて頂くところから人徳が得られるのである。
今度は神徳は受けよとある。それは今日私が申しましたようなところ、四季の変わりは人の力に及ばぬ事のその事実を、私共が知らなければいけん、そんならばどうならねばならんかと云うと、物事時節に任せれる、いわゆる神様任せになれれる心。
天地の事は人の眼をもて、知りて知り難きものぞ、恐るべし恐るべし、そう云う事実をね、私共が分からしてもろうて、いうならば自然の心と一緒になる、自然の働きを受けていくと云う事がです、一番人間の尊い行き方であると知る事、どのような事があっても、御事柄として受けていくという、そういう生き方が、一番人間の尊い生き方、そのことが段々分からせて頂くからです、もう本当に成り行きに任せるとか、自然の働きと云うものを尊ばせて頂くとか云うような事を、繰り返し体験させて頂くうちにです、その事自体が懐かしむ心になってくる。
懐かしむという事はね、懐かしいと云うのとは違いますよ、先日もその御理解頂いてから、子供の時分の事が懐かしいと云った意味の事を、こゝで云っておられる、そしたら今日は懐かしむと云った御理解を頂いてと、こゝでお届けしておられましたけれども……
過去を懐かしいと思う、あれとは違う、懐かしむと云うのは、云うならばその時点時点でその事をです、もう本当に懐かしむと云うか、いとおしむと云うか、もう本当にしみじみと、それを有難く思うという心なんです、懐かしむと云うのは……
自然の働きを黙って受けていくという、例えばその受け方が、片一方の手で受けていっておるのならば、その例えば事柄が、たとえ苦い事であろうが、辛い事であろうが、それを有難く受けれるという、懐かしむ心で頂くという事が、これに又片一方の手をそえた事になる、これが本当の合掌の姿だと云う事。
そう云う例えば生活が出来れる、成程打ち向かう者には負けて時節に任せよ、と仰る。任せて行けれると云う事が、このように有難い、尊いものだと分かって時、合掌が出来る訳なんです
それをもう人に負けたと云うては歯痒い思いをする、人から怪我させられたと云うたら、もう歯痒い、いわゆるひしめき合うて人力が走っておるような、競争のようにまるきり、もう我先に走っておるような浅ましい姿、そう云う姿から、私共が解放されるおかげを頂く為にです、自然の中にはね、もう自然に委ね任せ育っていくならばです、人間の本当の幸せというものを、獲得していく事が出来るという、確信が持たれてくるようになる、神様を信ずる力がいよいよ。その根底は何かと云うと、吾無力、障子ひとえがまゝならぬ人の身であると云う事が、分からせて頂いて、任せ縋らせて頂く生き方が生まれてくる。
そう云う生き方の上に神様の心が分かって、神様の心に添い奉っておる生き方ですから、神様が御信用下さらん筈が無い、それを神徳と云う。だから神徳を受けた人の上には、もう自然がバックである、自然がその人の為に働きなさる、もう兎に角どうにもこうにも出来ない、云うならば働きと云うか、ここにしか人間の幸せは無いのだと云う事をです、私共が本当にそれを信じさせてもらい、行じさせてもろうて、そう云うおかげを頂いて、世の中の云うなら縁ある人の事毎に、これを伝えていくという生き方、いやそこにそう云うひとつの責任を持ってね、お互いが、為にはそれだけのおかげを私共がまず受けなければならん、体験をしなければならん。
天地金乃神様が、教祖生神金光大神に、どうぞ難儀な氏子を取り次ぎ助けてやってくれ、と仰る事の内容というのは、今日私が申しましたような内容を持って、助かってくれと云う事なんです。
只病気が治るために、只このお繰り合わせを頂く事だけの為のもし、それがおかげであったら、決して教祖金光大神が、この世に出現なさらなくて良かった、何々様もござった、何々教もあったんです、それこそイワシの頭も信心から、一心を立つれば奇跡は表れるそういうおかげじゃない金光様の御信心は、金光様の御信心を頂くと云う事は、今日私が申しましたような事を、分かって頂かなければいけん、そしてそれを体験の上に表していくおかげを頂いて、それを人に伝えて行かなければならない責任が、私共にはある。
けれども実際、それぞれの問題をふんまえていくと云う事は、容易い事じゃない、だから日々信心の稽古させて頂いて、お取り次を頂いて、乱れた心は正しくいき、心配な心不安な心は、安心の心へ切り替え切り替え日々していかなければならない、そこに信心の稽古がどうでも必要なんです。
ゆうべ私は遅うに御神前に出て、皆さんのことを色々お願いさせて頂いて、心にかかる事が色々ある、こら私がこげん心配しよったんじゃおかげ頂かぬんばいと思うごと、心配になる事があったんです娘さんの事でお母さんが今一生懸命、信心修業が出来とる、私もそれ聞いた時ちょっと不安になったんです。そしたらね、御心眼に綺麗な白足袋を洗濯して、干したばっかりのところがもう乾いたと云うおしらせを頂いた。
だから白足袋が乾いただけじゃまだはけません、これにやっぱアイロンかけにゃいかんでしょう、足袋という事は、私は各自の足元の事だと思いました。そしてその事を祈り願わせて頂く、そう云う例えば心配な事が起こってくると云う事はね、勿論これは自然の働きなんですけれどね、その自然の働きは何を彼に、又は彼女に分からせようとなさっておられるかと云う事。
もっともっと自分の足元の所へ注意をせろ、自分の足元をもちっと大事にせよ、乱すなよ、よごすなよ、それがおかげを頂いて、洗濯が済んだ、乾いた、そこでもうひと熱入れて、これにアイロンかける、そういうアイロンかけさせたいばっかりに、そういう事があってると云う事が分かった、……安心が出来るでしょうが、
はあ、そうですかと云う訳なんです、そんなら本人に熱を入れさせさえすればいゝのですねと、私は云う訳なのです、その為なんだだからおかげを受けていくという事に於てもね、さあどうなるだろうかといった事も、必ず自然の働きの中にはあるのである、けれどもその事には、ちゃんと御神意があると云う事。
そんならその方の場合は、どういう御神意があるかと云うと、足元をよごすな乱すなと云われて、本気で乱さず、言わば足元を綺麗に、言わば洗いもした、洗濯もした、乾かしもした、けれどもこれにはもういっちょ、念を押しとかにゃいけん、もうひと熱こゝに入れとかにゃ、これはシャンとして他所行きにはならんという事、云うなら人にでも本当に、こう云う素晴らしい神様ですよと教えて上げる事が出来ない、そこのところの体験を頂いとかにゃ。
そういうこれは実際問題をふんまえての、例えば事柄がそう云うような問題を私共は、日々通って行く訳なんですけれど、その事が又、段々分かってくれば来る程です、それも又楽しい事であり、有難い事であると分かってくる。
その事も云うなら合掌して受けさせて頂く程しの、心の状態に育ってくる、そう云う生き方に初めて神様の御信用、神様の心が分かって神様の心に応えていくという行き方なんですから、神様がもうあの氏子は、と御信用下さらない筈が無い。
今日は特にこの御神徳を受けるという事の意味をね、今日は他の四季の変わりは人の力の及ばぬ事と、天地の事は人の眼をもて、知りて知りがたきものぞ と云う他の御神訓を引いて、御神徳を受けよと、だから神徳を受けるという事は、もう天地金乃神様のね、願いであると同時にです、受けられるその大元のところを分からせて頂いて、今朝私が頂きます、それこそひしめき合うて、どれだけ数があるか分からない程しの人力車をね、お互いが引っ張って行っておる、そう云う生き方からそれを改めて、いわゆる打ち向かう者には負けて、時節に任せて頂く、自然の働きに委ね、そして縋っていくという生き方に、変わらせて頂く生活をです、私共がさせて頂かねばならない、そこから生まれるおかげを人に伝えていく、もう人間の上にです、もう絶対おかげになる、人間が幸せになる道をです教祖金光大神に天地の神様は委ねられた、それを天地金乃神様は話にしてこうして残しておって下さる、それを私共が受けて、そして表して、それを人に伝えて行かなければならない、そう云う責任をね、各自が感じれる程しの信心を頂きたいですね。 どうぞ